ふと空を見上げると桜が花を咲かせていた。ひらひらと美しく舞う花びらに髪を撫でられて長いまつげを伏せると聞こえるのは鳥の声。春の陽気に誘われて春風がゆっくりと吹きぬける。春とはこんなにも心地のいいものだったろうか。
犬千代に前田家に住まうことを許されたりくは、まつに舞から芸、言葉遣いや振る舞いまですべてを教えてもらっていた。
中でも舞と琴の技術にとても長けていて、それらはすばらしく成長した。
だが、袖の長い振袖を着るのだけはどうしてもきゅうくつでならなかった。
まつはりくに何枚もの見事な刺繍のされた着物を用意してくれたが、あまり喜べずにいたのだ。それは、りくの趣味のひとつに木登りがあったからである。
庭先にある大きな桜の木はりくのお気に入りの木だった。しかし、木に登るたびにまつにこっぴどく叱られるので最近は木の傍に行くことすらできなかった。
今日は桜色と黄色が使われた振袖を着て、琴の練習に励んでいた。
まつは犬千代と久しぶりに出かけると言って留守しているので一人で稽古をしていた。一緒に来るかと誘われたがやはりここは気をきかせ丁重にお断りしたのだった。
しんとした部屋に響く琴の音はとても美しく、部屋の前を通るものが思わず止まってしまうほどのものだった。
やっと一曲弾き終え、大きく伸びをしたりくはだらしなくあくびをひとつして
「あーあ。暇だなぁ・・・・」
などと独り言を漏らしていると、我ながら名案とも思える案が浮かんだ。
りくは琴をそのままに、少し駆けながら庭先へ向かい、誰もいないのを確認すると草履を履いて木に登った。
まつが帰ってきてもすぐ降りられるように2メートル程のところの枝に座り、塀の外を見た。
そこにはたくさんの桜の木があり、上から見ると桜で海ができているかのように見えた。
「あの下から見るとどんな感じなんだろう・・・」
あまり外へ出ないりくは好奇心に胸を膨らませていた。
木の上では、少し風が強くてまた心地よかった。
「あー。ホント長い間留守にしてたから、やっぱりまつ姉ちゃん怒るかなぁ〜」
背のあたりまで延びる長い髪を一つに結い上げている肩幅が広く大きな体の男はその体に似合わず、ため息を一つついてしょぼくれていた。
前田の風来坊とも呼ばれるその男の名は前田慶次。
ずいぶん前に利家とまつが住む屋敷へ同じく住んでいたのだが、利家とのたわいもない喧嘩がきっかけでずっと家を留守にしていたのだった。
しかし最近、このままの状況は流石にまずいかと思うようになり、一度戻ってきてみたのだ。
「―キキッ」
肩にのった猿はしっかりしろと言ったように慶次を見つめていた。
それをみて、慶次はため息をまた一つついて
「わかってるよ夢吉、潔くまつ姉に怒られるさ。」
夢吉と呼ばれるその猿に後押しされ、慶次は屋敷へと足を進めた。あたりは桜の花が満開でとても美しくみえた。
いざ門前に来てみるとまつの怒る顔を思い出しやはり気が引けてきた。
しばらく門前で考え込んでいたが、いつまでもそうしてはいられないので結局中へ入ることにした。侍女に向かえいれられ利家とまつが留守にしていると聞いて慶次は内心ほっとしていた。
「利たちが帰って来るまで何してようか?夢吉?」
鼻歌を歌いながら廊下を歩いていると庭先にあるお気に入りの桜の木のことを思い出した。幼いころ、よく木登りをして着物を汚してはまつに怒られていた。あの木はまだあるんだろうか?そんなことを思いながら庭先へ向かった。
長い廊下を歩いていると何かが聞こえた。風の音でもなく、侍女たちの話し声でもない。何だろうか。
庭先へ足を急がせるとそこにはなつかしい大きな桜の木が美しく花を付けていた。風に舞う花びらはふわりふわりと地へ行くさまは雪のようにも見えた。
耳をすませると、透き通るような声が聞こえる。木の上を見ると、振袖姿の少女が足をぶらぶらさせながら歌を口ずさんでいた。目を瞑って春風に髪をなびかせていた。その髪は金色に輝いていてしばらくの間目を奪われてしまった。
―――――
木の上でのんびりと風を受けていると、ふいに歌を思い出した。何でこんな歌をしっているのかは分らない。けれどなつかしくてゆっくりと歌い始めた。するとひどく心が安心して自然と笑顔がこぼれた。
歌が終ると同時にうっすらと目を空けるとそこには知らない男がいた。年は自分より2つ3つ上だろうか。男は口をぽかんとあけてこちらを見ている。
「えっと・・・利さまのお客様?それともまつさまの?」
そう尋ねても一向に反応しない男を不思議に思い、りくは猫のように身軽に木から降りるとその男に向き合い言った
「ねぇ・・貴方大丈夫??」
空色の瞳が眉を八の字にして慶次を見つめる。りくに見とれていた慶次はその少し鼻にかかった声で我に返った。
辺りをもう一度確認して、頭の中を少し整理して少女に向き合った。
「ああ。お客様って程のもんじゃないけどそんな感じ。お前は?」
「私は・・・ここにおいてもらっているだけ。」
「ふぅん・・俺は慶次。呼び捨てで良いぞ。お前は?」
「・・・・りく」
「へぇ。綺麗な名前だな。」
そう言うと慶次と名乗るその男はにこりと笑った。そうされると悪い気はしない。りくも小さく笑い返した。
そんなりくを見ると妙に顔が熱くなる。
――顔だけじゃない。心臓も煩く自分の中で響いてる。なんだろうこんな気持ち始めてだ・・・。
「・・どうしたの??」
「・・・・ん?」
「大丈夫なの?さっきからボーっとしてばっかりだけど・・何かあった?」
「そうか?平気平気。何でもないって。それよりさ、さっきの歌ってりくが考えたのか?」
自分の感じたことの無い不思議な感情を隠しながら笑顔を作って慶次が言うとりくの表情が曇った。何かまずいことを言ったのか心配して慶次はりくの顔を覗き込んだ。
「りく?どうした??俺、何かまずいこと言ったか?」
「ごめん、歌のこと分らないの・・・。私ね・・記憶が無いの。私には過去が無い。今まで何をしてきたか、全く思いだせなくって・・・利さまに拾われてここで住まわせてもらっているの。」
思いもよらないりくの答えに今度は慶次が表情を曇らせる。悲しげに微笑むりくの笑顔は何故か見ているだけでとても辛かった。
「そっか・・でもさ、大切なのは過去だけじゃないだろ?」
「・・?」
「たしかに過去ってものは大切だ。けどさ、これから作っていく未来の方がもっと大切なんじゃないか?」
そうだろと言った様子で慶次はりくにまた微笑みかけた。
何故初めてあった人間が、私のことを全くしらないはずの人間が、私の今一番聞きたい言葉を言ってくれるのだろう。りくは嬉しくてたまらなかった。前田家に来てからというもの、りくは良く笑ったがその笑顔には何処か寂しさが残るものだった。しかし今のりくは今まで見せた笑顔の中で一番幸せそうに笑いながらも涙を流していた。
慶次は困ったように微笑み、りくの頭をぽんぽんと撫でる。
「それにな、一人で未来を作るのが不安なら俺が一緒にやってやる。だから泣くなよ。いい女は泣いてちゃ駄目だぞ。」
「うん。ありがとう、慶次。」
涙を拭ってまた笑顔を作った。
ねぇ慶次、貴方のその暖かくて優しい言葉にこの時の私がどれほど救われたか・・・貴方は分るかな?
ついに慶次登場!
キャラがいまいち掴めてない気がしますが更新頑張ります・・!